IFS最新刊の記事の訳です。
てまりさんからのご好意で訳したものを頂きました。
長い記事の訳をありがとうございます。
写真もとても素敵です。
是非楽しんでください。
原文はこちら
人生で初めて、ジョニーは打ちひしがれていて、フィギュアスケート人生の選択肢が唯一つ -スケートをやめるということになってしまうのではないかと恐れを抱いた。年齢的には遅れてスケート界に入ってきたこの才能あるアスリートにとっても、どん底というのは未知の領域ではないというように思えた。彼には、すぐにでも論議を巻き起こすようなことを言う力があり、スケート靴ですべるようにすばやく、辛らつな言葉を言い、祝福の言葉と悪態を交互についた。
普段はすぐに立ち直ることのできるスターは、3度全米チャンピオンになり、2001年のワールドジュニアチャンピオンでもあるが、すべてを経験し、あらゆることを耐え抜き、ここ数年間は敗戦して打ちのめされても、今までどおり、いつも立ち直ってきた。
2003年の全米選手権がそうだった。ウィアーが怪我をしてフリースケートの途中で棄権した時には、批判的な詮索や将来の失敗を予告する興奮した意見などが奔流のようにあふれ出した。
それから2006年の冬季オリンピックも、そうだった。そのときウィアーは、試合では最高の2位という成績でロングプログラムに入っていった。前にいるのはロシアのスーパースター、エフゲニープルシェンコだけであった。ウィアーは少しもたついて、それでも最終的には、立派な5位という成績を残したが、アメリカのメディアはもっと大きな期待を抱いていたので、通信社のニュース速報でウィアーにかなり手痛い発言をぶつけることになった。
スケーターの受信箱には何千ものメールが続々と入った。応援してくれる温かい言葉もあれば、憎しみをぶつけるような厳しい手紙もあった。中でも一番不安にさせたのは殺してやるというような脅しであった。
苦い敗北
そのとき21歳だったウィアーは何とか再び再構築をして、立ち直った。オリンピックのわずか数週間後、彼はカルガリーで2006年世界選手権に出場しなければならなかった。そこでは雪辱を果たす演技をしたいと願っていた。結果は7位だったが、めげないウィアーは持ち前の皮肉に満ちたユーモアと楽観主義で2006-07シーズンを迎えようとしていた。
彼は長い間ずっと彼のそばにいたコーチのプリシラヒルとともにシーズンに入ろうとしていた。ヒルはウィアーを2004年から2006年の全米選手権のタイトルに導いた人だ。ところが、2007年の全米選手権では彼の経歴で最悪の衝撃を受けた。3位という成績に下がり、ライバルで新チャンピオンとなったエバンライサチェックに30点以上も引き離されてしまったのだ。
「あれは最悪だったな」 そうウィアーは語った。「今までの3回の試合のような演技はできないとわかってきたんだ。調子が悪かった。準備もできていなかったし、僕とエバンの間に大きなライバル関係が作り上げられていた。演技をするのに大変なプレッシャーがあったんだ。それに、僕はメディアや、連盟からさえ、ほかのスケーターとはまったく別扱いにされていた」
ウィアーはすぐに自分のコントロールを失った。「僕はとても不安定な状態だった。まるで準備をしようとしているのに、すべてのことが手の届かないところにいってしまったみたいな感じだったんだ」
ウィアーに問題をはっきりさせる時が訪れたのは、2007年の世界選手権の練習から帰るために車を運転している最中のことだった。彼は自分がどん底にいるということを自覚したのだ。ウィアーはそのときのことを思い出して次のように語った。「僕は自分に言ったんだ。『どちらか決めよう』深く掘り下げて、自分がスケートに何を望んでいるのかを決めるか・・・そうでなければやめるか」
そのときにはウィアーは、彼が第2の母と呼んでいるヒルが、彼の力を信じるのをやめたと感じていた。「もし彼女がやり直せると思っていたとしても、僕はそういう印象を持てなかったんだ。彼女の支えでは足りないと感じたんだ」 ウィアーはそう話した。
二人が日本についたとき、二人の緊張関係は高まった。「そのときには、僕はコーチを替えなくちゃいけないとわかっていた。僕たちはフリースケートをすべるためにリンクに入っていく前に10分間も口論をしたんだよ」 ウィアーは8位に終わり、それは4回のワールドへの出場の中で最悪の順位だった。
新しい視野
スケート選手としてのすべてのキャリアをヒルの指導の下で過ごしてきたが、ウィアーは転換をはかり、彼を信頼してくれる、そしてもっと重要なことは、彼が再び自分を信じることができるようにしてくれるコーチを見つけなくてはいけない時期が来たのだと決断した。
「ガリーナズミーフスカヤは、ぜんぜん僕のリストのトップにはいなかった。最後に彼女が一緒に組んだアメリカ人のスケーターはスコットデイビスで、そのときは彼のキャリアの最後のほうだったから。彼女からはオクサナ(バイウル)とヴィクター(ペトレンコ)を超えるようなトップスケーターを育てた経歴は見つからなかった」
しかし、ウィアーはバイウルとペトレンコと一緒に残したズミーフスカヤの成果が一流のものであることを見逃していた。バイウルの1994年のオリンピックでの金メダルの演技は世界中の観客の心を鷲掴みにして、国際的な名声をもたらしたし、ペトレンコの1992年のオリンピック金メダルは、オリンピックでの前ソビエト、現ロシアの男子チャンピオンの連覇の道を開き、それは2006年のトリノでの冬季オリンピックまでずっと続いた。
伝説的なコーチ、タチアナタラソワがウィアーの最初の選択だった。ウィアーはロシアに関する知識と愛着で知られていて、夏の間わずかながら彼女と練習をしたことがあった。「アメリカ人が一人でふるさとから遠く離れてモスクワに住むことが、どれくらいお金がかかり、大変なのか調べてみたときに、絶対に孤独になるってわかったんだ。アメリカで練習しなくちゃいけないとわかったよ。でも、別のアメリカ人コーチは考えられなかった。だって僕は最高のコーチを知っていたからね。プリシラヒルだよ」
グランプリシリーズで8つのメダルを手にしている彼の短いリストの次にあったのはニュージャージー州ハッケンザックに拠点を置くコーチ兼振付師のニコライモロゾフだった。以前はタラソワのアシスタントだったモロゾフのダンスリストはすでにいっぱいだった。「ニコライ(モロゾフ)には、高橋大輔や安藤美姫がいて、そのほかにものすごい数のほかのスケーターやダンスチームのプログラムの振り付けをしていた。僕にはもっと僕一人だけの特別扱いが必要だってことがわかっていたんだ」
ある春の日の午後、ニュージャージー州ウェインのアイスボウルトでウィアーと母のパティは厳しいウクライナ人のズミーフスカヤと会う約束になっていた。「その日はそもそも始まりからうまくいかなかった。すごい豪雨でニュージャージー州では降っている最中は洪水みたいになってたんだ。だから2時間半も遅れて到着したので、まったく最初から躓いちゃった感じだったよ」
「ジョニーの最初の印象はとても才能のある男の子だということだったわ、でも同時にとても不安定だったの」 そのときのことをズミーフスカヤは回想した。「大変に礼儀正しくて、私の目を見て言ったのよ。一生懸命練習して勝ちたいってね。私は彼に一生懸命練習するって言ったことを絶対に忘れないように言ったわ。だって、みんなそういうけれど、実行する子は少ないんですもの」
ズミーフスカヤと一緒にいたのは娘で振付師のニーナペトレンコと、以前の生徒で現在では娘婿でもあるヴィクターペトレンコだった。ISUのテクニカルスペシャリストとして、ヴィクターペトレンコは新ジャッジングシステムのもとで最高のポイントを得られるように独自にプログラムを分析し調整して基準に合わせることができた。
偶然にもペトレンコはウィアーが2006年のオリンピックのプログラムを滑っている最中に公式なコーラーを勤めていた。
「ジョニーが12歳までスケートを始めていなかったと知って驚いたよ」と、ヴィクターペトレンコは話した。「そんなに遅く始めたのに、世界のトップ選手になっているスケーターの話は聞いたことがなかったからね。彼に欠けているものは唯一つ。本当の練習だった。彼は自分ができると思っている以上の練習をするように指導してもらう必要があったんだよ」
ウクライナ人のトロイカ体制とジョニーとのトップ会談の結論をズミーフスカヤは率直に話した。「喜んでうけいれるわ。でも、ここには練習をしにくるのよ。私たちは子守じゃないんだから」
ウィアーは侮辱されたように感じた。「だからそこに行ったのに。永遠のコーチのような人を残して。それなのに、(ズミーフスカヤは)僕が子供であるかみたいに手厳しく言い聞かせたんだ。僕はよくわかってたけどね」、とジョニーは笑った。「このご婦人に言い返してはいけないってさ」
ロシアのやり方
ウィアーがズミーフスカヤと最初の練習時間を取るまで、3ヶ月以上かかった。彼女の特別なスタイルの指導がどれほど厳しいものであるかはほんの数秒やってみただけですぐわかった。「氷の上に出たとたん、僕が1分遅れたと言われた。それから、貴重な氷を使う時間をストレッチをするために使ったといって怒られた。ものすごく厳しい初めてのデートだったよ」ウィアーはそういって微笑んだ。「それに、これからどういうことが待っているかってこともチラッと見えたね」
「選手をロシア式にコントロールするやり方に関して学ばなくちゃいけないってことがわかった。一人ですべることは許されなかった。バレエルームでストレッチをするときでさえね。一人でエクササイズをすることも許されなかった。ほとんどの時間、3人のチームが僕についていて、少なくとも一人は必ず一緒にいるってことに僕は慣れなくちゃいけなかった」
ウィアーが隠していた一つの驚くべき才能は、独学で得たロシア語会話の知識だった。「初めて座ってやった会議では、ガリーナがロシア語を話して、ニーナが翻訳をしてくれた。ガリーナは簡単な英語ならできたけれどね。 彼らが知らなかったのは、僕がロシア語をかなり話せるってことと何が話されているかわかってるってことだった」 そう、ウィアーは説明をした。
練習が始まると、言葉の見せかけはすぐにはがれ、2日もしないうちにズミーフスカヤはウィアーに矢継ぎ早のロシア語で指示を出すようになった。
ウィアーは練習が始まったときにはうぬぼれや自信を持っていた。ズミーフスカヤは彼を怒鳴り倒してそんな気楽な領域から抜け出させた。「すぐに彼女はジャンプに入るときの技術的な欠点を指摘したよ。一般的に言って、僕のジャンプはうまくいってたし、みんな賞賛してくれていた。ガリーナは僕を厳しく掘り下げ、直さなくてはいけない欠点をみんなリストアップしたから、僕はすごく心配になってしまった。彼女を喜ばせようとしたけれど、簡単には喜ばないように見えたね」
徐々に、ぎこちなくはあったが、前ソビエト連邦出身のコーチと、ペンシルバニア州コスタビルの男の子は自分たちのリズムを見つけるようになり、前進が始まった。
この練習プログラムが始まって6週間たって、ウィアーはズミーフスカヤが彼が最も恐れていた言葉を叫ぶのを聞いた。ランスルー。「いつもランスルーがいやだったんだ。重きを置いたことはなかった。彼女が『プログラムを全部やってみましょう』というのを聞いたときには気持ちが沈んだよ」
ウィアーはジャンプで3回転倒し、ステップシークエンスで躓いたときは氷に打ち付けられそうになった。「ひどいものだと思ったよ。でも、彼女のいうとおりにやったら、最後にガリーナが言ったんだ。『よくやったわ』ってね。その言葉でプレッシャーが取れて、何も完璧じゃなくてもいいんだってことがわかったんだ。僕に必要なのは唯、彼女のやり方が正しいやり方だって信じることだったんだ。だって、結局、彼女は二人もオリンピックのチャンピオンを育てたんだからね」
厳格な外見の下で、ズミーフスカヤはウィアーを賞賛していた。「ジョニーが特別なのは、自分のスタイルを持っていることよ。ほかの誰とも違うし、ほかの誰かの真似をしようともしないわ。それに、ジョニーはとても特別の才能を持っているからジョニーのまねをすることもすごく難しいのよ。彼に与えられるものが私にある限り、彼は望みうる最高のコーチを手に入れているわ」
厳しい愛情が手におえないようになったときには、振付師でプログラムのより良くする役割のニーナペトレンコが間に入ってくれる。「もしジョニーが苦しんでいて、でも母に直接言い出せないときには私に話せばいいの。私は自動車のバンパーのようなものよ」
すべてをラインに乗せる
ニーナペトレンコはウィアーが今シーズンの最初のグランプリシリーズ、カップオブチャイナで氷上に上ったとき、後ろに控えていて、祈りをささげていた。その試合にはライサチェックもいた。「もうエバンには負けたくなかったけど、それより、新しいコーチと一緒にすばらしい演技を見せて注目を集めたかったんだ。僕の「Love is War」の演技をしながらガリーナが動き回っているのをみることができた。彼女は僕と一緒にプログラムの中に入り込んでいたよ。キスアンドクライでは本当にうれしそうで、顔つきが輝いていたよ。
ズミーフスカヤのやり方はうまくいったように見えた。ウィアーが中国を出るとき、彼の手荷物の中には、金メダルがしまわれていた。
それに続く10日間、ジョニーはモスクワで、グランプリシリーズのロシア大会のために練習をした。「そのときは、シーズンを通して最高の状態だったね。完全に準備が整っていたんだ」
彼の関心はコーチを含むものになっていった。「ガリーナは友人や同僚が一緒に僕らの仕事を見るので神経質になっていたよ。しばらくロシアでは選手をコーチしていなかったんだ」ウィアーはカップオブロシアで初めて優勝したアメリカのシングルスケーターとなった。
2007年の終わりにはウィアーの蓄えはほとんど空になっていて、グランプリファイナルの出場では4位に終わってしまった。
1月にセントポールでの代表決定をかねた全米選手権があった。メダルを取れなければ、ウィアーはワールドチームに入れない。「ナショナルの前の何日かは朝起きると、左の肩甲骨の下に痛みが走ったんだ。首を回すことができなかった。くしゃみをするだけでも背中を誰かが切り裂いているように感じるほど痛かったんだ」
批判を恐れて、ウィアーはほんの少数の近しい人を除いてこの怪我を秘密にすることを決めたが、奇跡的にショートプログラムの「ユノナイアボス」が終わったときには1位になっていた。
その後に起きたことは、アメリカのフィギュアスケートの歴史に、点数がタイになった男子の試合という形で残ることになるだろう。「フリースケートは僕にとっては魔法のような感じだった」 そうウィアーはそのときのことを語った。「ガリーナは僕が感極まって、最後のステップシークエンスでは泣き出したのを見たそうだ。大声で叫んでいたんだって。『集中、集中―点を取るんだ』 でも、僕は文字通りスピンやステップのことさえ考えていなかったんだ。僕の頭の中を横切っていったのは、ふるさとのデラウエアにある、あの古いリンクだった。ニュージャージー州のね。ロシアのことも、中国のことも、すべてがそこにあった。プログラムが終わったときには涙があふれていて、観客が叫んでいたよ。そのとき思ったんだ。『僕は戻ってきたんだ!』ってね」
「混乱の中で、ジョニーは彼の名前とライバルであるライサチェックの名前の両方の横に1という数字が付いたのを、キスアンドクライからのテレビスクリーンで見た。100分の1点まで、二人はまったく同じファイナルスコアだったのだ。
けれども、フリースケートの勝者だったので、ライサチェックが金メダルを家に持ち帰った。ウィアーは自分の演技もライサチェックの演技もまだ見ていない。「もしそれを見たら、どっちも負けってことになるだろうな。タチアナタラソワはロシアのテレビで全米選手権の解説をしていたんだけど、彼女は僕が勝ったと思ったといったんだよ。それで僕には十分だよ」
スウェーデンのイエテボリでの2008年の世界選手権では、時差になれるために、ウィアーは練習をしようとモスクワに戻った。そのうち、彼はズミーフスカヤが彼の生活のすべてを厳しくコントロールしようとすることにいらだつようになった。そして、シーズンを通して、この期間だけは二人がぶつかり合ったことを思い出したと語った。
非の打ち所のないように見えたショートプログラムが終わって、いよいよフリースケートの時間になった。この4分間で、ウィアーがついに世界選手権のメダルを手にできるかどうかが決まるのだ。もしメダルを取れなければ、アメリカチームは1994年以来初めて、一つもメダルを持たずに帰国することになる。
3人の男子のメダリストたちが世界選手権の表彰台に立ったとき、アリーナに響き渡ったのはカナダの国家だった。新しく世界チャンピオンになったジェフリーバトルの傍らには、片側には銀メダリストとなったフランスのジュベール、反対側には銅メダルに輝くジョニーウィアーが立っていた。「僕を表彰台に乗せてくれて、もう一度自分を信じられるようにしてくれたのは、チーム全体のおかげだよ」 そうウィアーは話した。
ヴィクターペトレンコは世界でもオリンピックでも表彰台の一番上に立っているが、2010年のバンクーバーオリンピックについてこう予言した。「ジョニーが最大限の力を出せば、彼は次のオリンピックチャンピオンになるだろう」